きよこの書き散らかし小説。
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神様がくれた
じいに捧ぐ物語。

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第26話 ジーに会いたい。

++++++++++++

 次の日も、ジーはいなかった。
 芝生の上に座り、実由は空を仰ぐ。

 ジーはどこに行ってしまったのだろう。ジーをかぐや姫のようだと思ったけれど、まさか月に帰ってしまったのだろうか。
 ばかげた想像して、「あるわけないし」と首を振る。

 太郎の毛をなでながら、小さなため息をもらす。
 厚志は、いつも通りにふるまってくれる。実由に笑いかけ、優しくしてくれる。
 それが、苦しい。

 和斗には諦めるなんて言ったけれど、気持ちはそう簡単には切り替えられない。
 そばにいればいるほどに、気持ちは強くなる一方で、終わりにしようと思えば思うほど、終わりなんて遠ざかっていく。
 お盆まで働くことにはなったけど、もうここにはいないほうがいいのかもしれない。
 そう思ってはいても、離れることを拒む自分がいる。

 ぎりぎりまで、そばにいたい。
 でも、それは苦しいだけ。

 矛盾する葛藤を何度もくり返し、見い出せない答えを探し求める。

 諦めるしかない。
 実りのない恋をずっと続けていても、意味がない。

「わかんないよ……」

 にじみでてくる涙をなんとかこらえる。目の奥がツンと痛んで、よけいに涙が出そうになる。

「苦しい」

 いつまでこんな気持ちを抱え続けなければならないのか。

 終わりはある。
 いずれ、気持ちは終わりを迎える。それを知ってはいても、今の自分には『終わりが見えない』のだから、苦しさは消えやしない。
 真っ暗な道の先を思い、ぐるぐると思考が渦巻く。

「助けてよ、ジー」

 そばにいて、話を聞いてほしかった。うなずいてくれるだけでいい。馬鹿にして笑われたっていい。
 ジーがいるだけで、それだけで救われる。
 ジーの包み込むような優しさをひたすらに欲している。

 実由の髪の毛を、太郎がパクパクとくわえて遊んでいる。
 実由は小さく笑って、太郎の頭を小突く。

 たった数週間なのに、こんなにも大きな存在になる人がいる。そんな人に出会えたことが嬉しい。

 空には満天の星。光は降り注ぎ、海に反射する。波の音はゆるやかに響いて、心地良い感覚を与える。
 まぶたを閉じて、流れる涙をそのままに。

 明日、ジーがいなかったら。
 ジーを探そう。
 ジーに会って、ジーに伝えたいことがある。

 実由は心に誓う。



 ***

 空は朝焼けで真っ赤に染まっていた。空と同じ色に、海も染まる。
 燃えるような赤が一面に広がって、太陽の光が鮮やかに伸びる。
 畳にこびりついた砂を掃きながら、実由はガラス戸の向こうの世界を見つめていた。
 あまりに赤すぎる世界。
 まるで、別の次元の世界のようだった。

「手、止めんな」

 和斗の声で我に返る。
 和斗は台所の掃除をしながら、実由に鋭い目を向けた。

「ごめん」
「……ここにいるの、つらいか」

 和斗の低い声は聞き取りづらくて、実由は「え?」と聞き返す。けれど、和斗はもう一度は言ってくれなかった。

「つらいか? って聞いた?」

 返事をしてくれない。でも、きっとそう言ったのだろうと実由は勝手に解釈して、首を横に振った。

「大丈夫」
「だったら、いいけど。我慢はするなよな」
「心配してくれてるの?」
「浮かない顔されりゃ、誰だって心配になる」

 つっけんどんな言い方だけれど、和斗が嘘をつかないことを実由だって知っている。
 心配させてしまったと、申し訳ない気持ちになると同時に、嬉しかった。

「和くんは、優しいね」
「うるせ」
「ありがとね」

 実由の言葉を聞いていたのかいなかったのか、和斗は何も言わずに、台所の掃除を再開させた。
 照れ屋だなあ、と実由はこっそりと笑う。


 ***

 ジーがあの場所に現れなくなって、三日がたった。
 これまでジーが裏庭にいなかったことなんてなかったから不安はどんどん募っていく。

 実由は、水族館からの帰り道、いつも通らない路地の方へと入っていった。
 ジーの家がどこにあるのか知らないけれど、この辺に住んでいるのは確実だ。
 ジーの居場所がわかれば、ジーの安否がわかる。

 怖くて仕方なかった。

 若く見えるが、ジーはもう年寄りだ。
 見た目が元気だって、いつ死んでしまうか、わからない。もしかしたら、と思うとぞっとしていてもたってもいられない。

 家の窓からは光が漏れ、晩ご飯の匂いが漂う。
 どこかの家で魚を焼いているのだろう。焦げ臭い香りがあたりを充満している。

 窓をそっとのぞきこんでは、次の家に行く。
 ほとんどの家は家の中まで見えないけれど、なんとなく団欒しているかどうかくらいはわかる。

 ジーは、和やかな家庭の住人ではないだろうと実由は予測していた。
 そうでなければ、「帰る家が無い」なんて言うはずがない。
 実由のように、家庭円満でも「帰る家が無い」なんて言いだすこともあるけど。ジーが、自分とその部分まで同じとは、実由には思えなかった。

 ブロック塀の向こう側で、様々な家庭が、様々な姿を見せる。笑い声の絶えない家もあれば、テレビの音さえ聞こえてこない家もある。

 二階から音楽が騒音を出す家、写経が聞こえてくる家、掃除機の音が響く家。

 ジーのいる家がどれなのか、全くわからない。
 苗字も名前も知らない。ジーが何者なのか、全くわからない。

 もうジーには二度と会えない気がした。
 そう思ったら、胸の中がざわついて、気持ち悪くなる。

 そんなのは嫌だと、心が叫ぶ。

++++++++++++

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【2009/03/03 03:39】 | 神様がくれた(恋愛)
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第27話 ホーム。

++++++++++++

 英和辞書をパラパラとめくっていた実由は、ふと手を止めた。
『H』の項目に黒字で太く書かれた英語――HOME。

 家。家庭。ふるさと。

 ホームは無いと、ジーは言った。

 帰る場所がない――実由とジーの共通点。
 孤独な老人は、ダンボールの上で犬と二人きり、月を眺める。

 込み上げる寂しさを、小さな胸の中で繰り返し繰り返し抱きとめる。
 ジー、どこに行っちゃったの? つぶやいて、目をつぶる。

 まぶたの裏で、ジーの後姿が揺らいだ。
 てろんとした素材感のYシャツ。グレーのスラックス。太い足にはビーチサンダル。すらっとした若々しい姿勢。ベートーベンみたいな白髪。
 実由が呼ぶと、煙草の煙をまあるく吐き出す。
 ドーナッツ型になった煙は月に向かってぷかりぷかりと浮いて、土星のわっかみたいに月と重なる。
 ちらりと実由を見て、右の口角だけを上げて笑う。
 シニカルで、ニヒルな笑い方。
 しわでたるんだ目元はどことなく鋭いけれど、目線はいつだって優しい。

「ジー……」

 HOMEの文字をなぞる。ざらざらとした紙の感触が手に残る。
 ついこの間までは厚志のことで頭がいっぱいだったのに。今はジーのことしか考えられない。
 そのくらい、実由にとって、ジーの存在は大きかった。

「実由ちゃん」

 ドアのノック音と共に、里美の声がドアごしに聞こえてきた。
 実由は慌てて英和辞書を閉じ、頭だけドアの方に向ける。別に英和辞書を隠す必要なんてないのに、なぜだか隠してしまった。

「はい!」

 感傷に浸る気持ちを隠すため、わざと明るい返事をする。
 里美の朗らかな声が「スイカ食べる?」と呼びかけてきた。

「あ、食べます」

 立ち上がり、ドアを開ける。
 四次元ポケットに手をつっこむドラえもんのようなかんじで、エプロンのポケットに両手を入れた里美が立っていた。

「ミューちゃん、いい物あげる」

 エプロンから出されたのは、小さな花が重なったデザインのチャームがついた髪留めだった。

「え、これ? なに?」
「もらいものよ。私にはちょっと若すぎるから」
「わあ……。嬉しい! ありがとうございます」
「近所の人が台湾に旅行行って来たんですって。そのおみやげ」

 近所。実由はぼそりとつぶやいて、髪留めのチャームを手でいじる。

「里美さん、あの」
「ん?」
「この辺に、あの、ホームレスのおじいさん、いますよね?」

 密接なご近所づきあいがある地域なら、ジーの噂が流れているかもしれない。もしかしたら、ジーの家族と里美が知り合いの可能性だってある。
 それを思い立ち、実由は思わず聞いていた。

「ホームレス? どこらへんにいるの? 漁港らへん? あの辺はたまにいるらしいけど」

 里美の反応はいまいちだった。がっくりしそうになったが、すぐに諦めるつもりはない。

「水族館のところに、毎日いるおじいさん。里美さん、知らない?」
「水族館って、大潮水族館?」
「うん」

 実由の必死な様子に、里美は目を丸くしている。
 なぜそんなことを聞くのかと言いたげな、好奇心に満ちた瞳を実由に向けてきた。

「園原さんちのおじいさん?」
「有名なの!?」
「有名も何も。夕方になるとダンボールもってうろちょろしてるのよ? 知らない人のほうがいないわよ」
「園原さん、って? どこに住んでるの?」

 ずいっと上半身を前のめりにして里美に詰め寄る。里美は「どうしたのー?」とうろたえながら苦笑した。

「大潮水族館の前の道、あそこをまっすぐに行くとね、たばこ屋さんがあるの。そこの道を左に入って三軒目あたりに園原さんちがあるわよ。どうしてそんなこと聞くの? 実由ちゃん、園原さんちのおじいさんと会ったことあるの?」

 言っていいものかどうかわからなくて、実由は戸惑う。足元を見つめ、足の親指を動かす。
 実由が何も答えないから、里美は不思議そうに首をかしげる。

「あそこのおじいさん、ちょっとぼけてるから。お話なんてできないでしょう?」
「ぼけて……? そんなことないよ。普通だよ?」
「やっぱり会ったことあるの」

 誘導尋問に引っかかってしまった。「あ」と息を漏らし、下唇を尖らせた。

「家族のこと、わからなくなっちゃってるのよ。だから、徘徊してるの。ご家族も大変なのよ。この間、階段から落ちちゃったみたいで、怪我して入院したらしいの。実由ちゃん、知り合いならお見舞いに行ってあげたら?」
「入院って」
「ご老人だからねえ。骨折ったらしいわよ」

 足元がくずれていくような気がした。
 砂浜に立った時、引き潮で巻き込まれ足を支える砂がなくなっていくような、あの感覚。

 ジーがぼけている?
 家族のことがわからない?
 徘徊している?

 そんなはずはない、心の中で何度も否定する。
 ジーはいつだってしゃきっとしていて、しゃべり方だって普通の人と変わりない。むしろ発声がきれいで、若々しい印象さえ与える。

 奥さんのミウのことだってちゃんと覚えていたし、あの愛おしげな視線は、家族のことがわからなくなった人の目じゃない。
 徘徊という言葉だって、ぴんと来ない。あてもなくふらついているわけでもない。はっきりとした意思の下、ジーはあの場所にいた。
 少なくとも実由には、そう見えた。

「実由ちゃん? スイカ、食べるんでしょう?」
「あ、え、うん……」

 胃の中に何かがスウ、と落ちていく。
 消化しきれない、不明瞭なもの。

 ジーに会わなければいけないと、使命感のように気持ちは昂ぶる。

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【2009/03/04 04:14】 | 神様がくれた(恋愛)
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第28話 ジーの元へ。

++++++++++++

 病院にお見舞いなんて、一度も行ったことがない。
 実由も入院経験がないし、家族も実由が物心ついた頃からずっと大きな病気をしたことがない。友達だってみんな元気だ。

 だから、初めてのお見舞いに実由は緊張していた。
 服だって、変な服は着れないと迷いに迷って、数少ない服の中から、一番大人しそうな印象があるものを選んだ。
 透け感がある生成りのパフスリーブのシャツに、七分丈のカーキ色のパンツ。カジュアルすぎるけれど、他にいい服がなかった。

 里美はそんなこと気にする必要ないのに、と笑っていたけれど、ジーに恥をかかせたくない、実由なりの気遣いだ。

 薄汚れた灰色の病院はあまり大きくはなく、どんよりとした雰囲気を放つ。
 だが、ロビーははつらつとした看護師の声が響き、照明が明るいせいもあって、暗い雰囲気は皆無だった。

 受付におそるおそる近寄って、「園原さんの、お見舞いに来たんですが」と声をかけた。
 白いナース服に身を包んだ若い受付の女性は、にっこりと微笑み、「園原さん……園原なにさんですか?」と聞いてきた。

「あ」と実由は声を裏返らせた。そういえば、ジーが園原なにさんなのか、知らない。

「ええと」

 お見舞いにまで来るのに、名前を知らないなんて、どんな関係だというのか。それを聞かれてしまったら答えようもなくて、モジモジとバッグをいじるしかなかった。

「園原さんって苗字の方、二名いるの。あなたと同じくらいの女の子と、おじいちゃん」
「あの、おじいちゃんの方です」
「そう。そしたら、五〇六号室ですよ。あちらにエレベーターがあるから」
「ありがとうございます」

 頭を思いっきり下げて、実由は足早に廊下の奥を目指す。
 二台並んだエレベーターの前で一息ついたら、右側のエレベーターがちょうど開いた。
 飛び乗って、五階のボタンを押す。
 心臓がドキドキと高鳴った。

 ジーとは、あの場所以外で会ったことがない。
 何も知らないジーの、『本当の部分』を知ろうとしている。

 なぜか罪悪感がわく。
 もしかしたら、ジーは知られたくないのかもしれない。だから、本名を名乗らなかったのかもしれない。

 五階に着いたエレベーターを出て、壁に書かれた部屋番号の案内を確認する。
 右をさす矢印に従い、ジーのいる病室を目指す。

 リノリウムの床にうすぼんやりと写る自分の影を追いながら、並ぶドアの横につけられた患者名のプレートを順繰りに見ていく。

「ああ、もう……面倒」

 次のドアのところで、袋を抱えた初老の女性が、あからさまに肩でため息をついていた。
 袋の中から、ストライプ柄のパジャマらしきものが見える。
 この病室の患者の身内なのだろう。洗濯物を取りに来て帰るところらしい。
 抱えた袋を持ち直すと、うんざりした表情のまま実由をちらりとみて、すぐに歩き出した。
 一応、実由は小さくお辞儀したけれど、無視されてしまった。

 知り合いでもないししょうがないか、と気を持ち直して、その病室のプレートを見る。
 四人部屋で、三人分の名前が書かれていた。

『伊藤浩二 及川修二郎 園原元一』

「そのはら、もといち? ……げんいち?」

 きっと『げんいち』だと思った。『げんいち』なら、アルファベット表記でGENICHIになる。『G』だ。
 ジーが実由に名乗った名前は、アルファベットの頭文字だったのだ。

 ドアから中をのぞいて、ジーを探す。
 ひとつは空きベッド。二つはカーテンが開いていて、二人とも老人だった。大きな口を開けていびきをかいて寝ている。
 ドア入ってすぐの左側のベッドだけカーテンが閉めれていた。
 そこがおそらく、ジーのベッドなのだろう。

 カーテンが閉められている状態では、中を覗き込むには勇気がいる。
 実由はためらいながら、カーテンが重なっている部分をつまんだ。

 中にいる人がジーではなかったら、恥ずかしい。
 だからといって、隙間からのぞくのも失礼だから、実由はどうしたらいいのか考えあぐねてしまった。

 廊下では、看護師の声や入院患者の声が響く。
 こんなところで戸惑っているところを見られてしまったら、それも気まずくて、カーテンの端を強く掴んだ。

「……ジー?」

 小さく呼びかけた。

「ジー、だよね?」

 少しだけ、声を大きくしてみた。
 緊張して、手が汗ばむ。廊下の喧騒が遠ざかっていく。
 なかなか返答は来ない。
 全く赤の他人だったのかもしれないし、声が届いていないのかもしれない。
 もう中をこっそり見てしまおうかと、手を動かしかけた時。

「……ミューか?」

 少ししわがれた、でもよく通る、ジーの声が聞こえた。

「ジー!」

 嬉しくて、つい勢いよくカーテンを開けてしまった。
 カーテンの向こう側には、ベッドに寝そべり、片手に本を抱えたジーがいた。

 濃いグレーのパジャマに身を包み、いつもより乱れたベートーベン頭をしていた。
 本を読んでいたからなのか、メガネをかけている。銀縁のメガネはジーによく似合っていて、いつもよりもずっとダンディに見えた。

「ジー、会いたかった!」

 飛びつくように、ベッドのそばに駆け寄る。

「カーテン閉めろ」

 ジーのほうは冷静だから、実由は少し不服に思いつつ、カーテンを閉めに戻った。
 カーテンを慎重に重ねて閉めて、またすぐにベッドの脇に寄る。
 ジーは本を閉じ、メガネをはずして、フウと息を吐いた。

「メガネ、似合うね」
「メガネ男子か」
「よく知ってるねえ」
「暇だからな、今は」

 ベッドの柵を掴んで、ジーを見つめる。ジーは乱れた白髪をいじって、またため息をついた。
 来てはいけなかったのかと思って、実由の気持ちはみるみるしぼんでいく。
 
「ジーに、会いたかったの」
「なんで、ここにいるってわかった?」
「海の家の人に教えてもらった」
「そうか」

 目を泳がせて、ジーは苦笑する。

「来ちゃいけなかったかな」
「いや、うれしいよ。照れくさいがな」

 どうやらジーは、いつもと違う場所で、しかも思いっきり寝起きの姿を見られたのが恥ずかしいらしかった。

「ジー、意外と乙女だねえ」
「うるさい」

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【2009/03/05 02:16】 | 神様がくれた(恋愛)
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第29話 私がいるよ。

+++++++++++++ 

 端に置いてあった椅子を引き寄せて座る。
 ジーとの目線が近付いて、実由はなんとなく、ジーの指に触れた。
 かさかさとした潤いの無いしわがれた手。でも、広くてごつごつとしていてたくましかった。

「ジー、げんいちさんっていうの?」
「ばれちまったか」
「うん」

 いたずらがばれた子供みたいに、ジーは舌をちろりと出して笑う。

「私は……」

 ジーの本名を知ってしまったのだから、自分の本名も、と思って言いかけて、止めた。
 どうしてなのかわからないけれど、まだ知られたくないと思った。
 ジーの前では、『ミュー』でいたかったからなのかもしれない。

 ジーの手が実由の指をかすめて、指先をつまんだ。そのままゆらゆらと指を揺らしてくる。実由はこそばゆい気持ちになって微笑んでいた。

「ジー、あのね」

 恥ずかしくなって、うつむく。照れ隠しに実由も指を揺らしてみる。

「ジーがいなくて、寂しかった」
「そうか」
「ジーがいないと、寂しい」
「そうか」

 だから。実由はささやいて、ジーをじっと見下ろす。
 どうしても伝えたかった。
 ジーが好きだから。ジーが大好きだから。

「ジーには、私がいるからね」

 ジーと実由。同じ二人。どうしようもない孤独感に包まれて、海を眺める二人。『同じ』だなんて、実由の思い違いかもしれない。
 でも、本当に『同じ』だとしたら。

 言ってほしい言葉があった。
 かけてほしい言葉があった。
 誰でもいいわけじゃない。心から欲する人に、言ってほしい。

 そして、言いたい言葉。

「いつだって、私がいるよ」

 ずっとそばにいれるわけじゃない。でも、そばにいることだけが、全てじゃない。
 だからこそ、実由は、どうしても言いたかったのだ。

「ミュー。お前さんは優しいいい子だ」

 ジーは目を細めてそう言うと、実由の髪をそっとなでた。

「俺はな、ミュー。どこにも帰れないんだ」
「うん」
「もう帰る場所は無い」
「うん」

 ゆっくりと落ちるジーの手を、実由は掴んでいた。冷えた指を温めるように、両手でしっかりと握りしめる。

「太郎の世話を頼まれてくれないか」
「うん」
「悪いな」
「大丈夫だよ」

 なぜだか、涙が込み上げる。
 でも絶対泣いてはいけないと、実由は喉に力を入れてこらえる。

 里美から、ジーの症状を聞いていた。
 ジーは腰骨を折った。
 歩くために必要なのは、足だけじゃない。腰の方が重要だったりする。
 ジーはもう歩けなくなるかもしれない。
 リハビリをすればいずれ歩ける可能性はあるが、老体のジーがリハビリという訓練に励めるのか、家族がリハビリを支えてあげられるのか。

 本人の頑張り次第とはいえ、困難なことだった。

 ジーもそれをわかっていたのかもしれない。
 諦観に包まれた暗い表情を実由に見せまいとしているけれど、時折陰りを見せる目が、それを訴えていた。

「また来てもいい?」
「ああ」
「ジー、忘れないでね。ジーには、私がいるよ」
「ああ、わかってる」

 いつもみたいに、右の口角だけを上げて笑う。その笑い方が、実由は好きだ。

「ジーのこと、大好き」
「ありがとう」

 誰よりも好き。

 実由はくり返しくり返しつぶやいて、その度にジーの手を強く握った。
 最初はうなずいていたジーも最後の方には「わかったから」と苦笑する。
 それでも、実由は繰り返す。

「ジーが好き」


 ***

――歩けなくなるかもしれないから。

 蝉の声が鳴り響く。
 病院の敷地の外に広がる林の奥で、雨のように降り注ぐ。

――園原さんちではお世話できないかもしれないって。

 立ち尽くして、空を仰ぐ。
 熱を放射する太陽の光はまっすぐに実由を貫く。

――少し入院したら、都内の方にあるリハビリセンターに入るんだって。

 吐き出す息が震えて、心も震えた。

――それでも歩けなかったら。

 じりじりと地面から熱が這い登る。蛇みたいに足に絡み付いて、足だけが熱を発する。

――老人ホームに入れるそうよ。

 火照った体は、言うとおりに動いてくれない。足先がむくれたみたいな、奇妙な感覚がじわじわと忍び寄る。

――しょうがないのよ。現実的に考えたら、ご家族だって、お世話できないし。

 歩けなくなった人の介護がいかに大変かくらい、実由にだって想像がつく。
 トイレに行くにしろ、お風呂に入るにしろ、ささいなことがもう一人では出来なくなるのに、四六時中そばにいて介護することは並大抵の努力ではできないだろう。
 そうなれば、必然的に答えは出てしまう。
 助けてくれる人がいるところへ行かせるべきだと。

 ジーが望んだとしても望まなくても、それがジーにとっても家族にとっても一番なのだ。

 うつむいた実由に、里美はそう何度も説明してくれた。

 実由も、里美の言うことを理解していた。

 だから、苦しかった。

 ジーは、もう今までどおりには生きられない。
 あの場所で月を見ることは二度とない。
 ジーと太郎と実由。二人と一匹の、あの時間はもう二度と訪れない。

 ジーと、会えなくなる時が来るかもしれない。


 ミンミンゼミの鳴く声が、耳の奥でずっと響いていた。

+++++++++++

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あとがき↓
更新が遅れまくってしまい、申し訳ありません。
仕事の他、色々ごたついてしまい、執筆が思うように出来ませんでした(^^;
今現在も、かるーいスランプで執筆が進んでません・・・

でも頑張って書き上げます!!

風邪をひいてしまいました。
読んでくださってる皆様も風邪に気をつけてください(^^)


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【2009/03/11 03:40】 | 神様がくれた(恋愛)
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第30話 大事な場所。

+++++++++++++ 

 まだまだ熱いのに、夏は終わりに向かって進みだしていた。
 つくつくぼうしやひぐらしが声を出し始めたのだ。

 食堂で仕事をしていた実由は、食器を片付けながら、夕焼けに染まりつつある外を眺めた。
 開けっ放しの入り口から、オレンジ色の淡い光が四角い陰影を残す。
 風鈴の音が小さく響く。それが無性にさびしさを煽った。

 零れ落ちそうになる涙をこらえて、テーブルをぐいぐいと拭いていると、海の家で働いていた和斗が戻ってきた。

「おかえりなさい」
「おお」

 疲れているのか、片手をあげるだけで、和斗はすぐに家に上がろうとする。実由はとっさに和斗のシャツを掴んで、引き止めた。

「和くん、お願いがあるの」
「……なに」

 一重まぶたの鋭い瞳が、実由を見下ろす。不機嫌そうな態度に実由はびくついて、持っていた布巾をぎゅっと握りしめた。

「犬を、拾ったの」
「犬」
「うん……」

 ジーに太郎の面倒を頼まれた。
 すぐに実由の家に連れ帰ることも出来ないから、まずは高山家に預かってもらう他ない。そのためには、高山家の承諾を得なければ、実由にはどうすることも出来ない。

 厚志に相談しようと思ったけれど、厚志とは距離を感じてしまって、頼みごとなんて出来なくなってしまった。

「私がおうちに帰るときに、連れて帰るから、それまで、ここに置いてくれたり……しないよね」
「どこで拾ったんだよ」
「水族館の近く」
「ああ……」

 短い頭髪をなでて、和斗は何かを思い出したかのように中空を仰いだ。

「母ちゃんに聞いてみるよ。うちは庭もあるし、大丈夫だろ」
「本当!?」
「俺が拾ったことにするから。お前は『犬を連れて帰りたい』って言え。その方がいいだろ」
「え? でも」
「お前も自分の親に確認取っておけよ」

 有無を言わさぬ態度で和斗はそう言うと、さっさと家の中に入っていってしまった。
 アルバイトで寝泊りしている実由が『犬を置いてくれ』なんて言うのはわがままだ。
 だからこそ、わがままが通るであろう自分が拾ったことにすると、和斗は言ってくれたのだ。

 ぶっきらぼうで冷たい。けれど、優しい。
 実由は和斗の表には出にくい優しさをかみしめて、背中に向かって小さくお辞儀した。


 ***

「たろー!」

 上がり坂になった道路を走りながら、白い塊に向かって駆け出す。
 道路の上にいた太郎は、実由の声を聞き分けて、三角形の耳をピンと立てた。

 和斗に話した後、実由はすぐに母親に電話した。
 玲子は最初、かなり渋っていたが、最終的には実由の熱意に負けて了承してくれた。

 実由が世話をすること、散歩もエサも実由がやること。ちゃんとしつけること。家犬として家族に迷惑がかからないよう、実由がしっかり面倒を見ることが条件になった。

 太郎が家族の一員になる。
 ジーとは離れ離れになるけれど――太郎も実由も――ジーとの絆の証を連れて帰れることが実由には嬉しくてたまらない。

 太郎のそばに行くために、全速力で走る。
 だが、太郎は案の定、鬼ごっこと勘違いして走り出してしまった。
 ジーといつもいた水族館の裏庭に向かって行く。
 まるで、実由をそこに連れて行こうとするように。

 駐車場を横切り、生垣を乗り越えて、裏庭にたどり着く。
 すでに到着していた太郎は、ジーがいつもダンボールを敷いている場所に行儀よく座って、振り返ってきた。
 ぺろりと舌を出し、大きく息を吐き出す。
 実由は隣に座ると、額にかいた汗をぐいっと手の甲でぬぐった。

「太郎。私と太郎、家族になるんだよ」

 思いっきり顔を舐められる。くすぐったくて、実由は笑い声を上げる。

「うちはね、あんまり広くないけど、お母さんがきれい好きだから、けっこう居心地いいよ。うちに帰ったら、私の部屋に連れてってあげるね。お気に入りのベッド、寝かせてあげる。ピンクのベッドカバーをかけててね、アロマの芳香剤置いてるの。すごくリラックスできるんだよ」

 話している内、あんなにも帰りたくないと思っていた家が急に愛おしく思えてきた。

 モノトーンに染まっていた自分の部屋の光景が、少しずつ少しずつ色を取り戻していく。
 ベッドカバーのピンク色、白い机、揺れるレースのカーテン……花開くように、記憶の中で鮮やかに咲いていく。

 初めて気付いた。
 大事な場所だったことを。

 どこにも居場所が無いなんて、自分を哀れむ弱い心が創り出した幻影に過ぎなかったのだ。本当は、きちんと目の前にあった。
 曇った目が、それを見えなくさせていただけで。

 居場所をなくさせていたのは、自分自身の心の弱さだった。

「私、しっかりしないといけないね。太郎のこと、面倒見るんだもん」

 太郎の毛を逆さになでる。
 毛が逆立っていくのを直して、また逆立たせる。それを繰り返しながら、実由は少しずつ気持ちが落ち着いていくのを感じていた。

 居場所なんて、あってないようなもので、ないようであるものなのかもしれない。
 見失うのも、無くしてしまうのも自分自身で、創り出すのも、見出すのも自分自身なのだと、思い知った。

「私が、ジーを支えてあげるんだ」

 ジーには、本当の意味で帰る場所が無くなる。今までの居場所と、ジーは決別しなければならない。
 実由とは、違う。

 だからこそ、ジーのそばで、ジーを守りたい。
 残り少ないこの夏の時間を、ジーと共に過ごそうと、誓う。

 見上げる空の上。
 群青色の雲に翳る月。
 光は降り注いで、波間を白く染める。
 真っ黒な海は、潮騒の音を奏でる。

 ジーと見た光景を、目に焼き付ける。
 ジーに話して聞かせるために。

+++++++++++++

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あとがき↓
急に忙しくなって、しかも風邪が治らなくって、更新がままならない状態になってしまいました(;ω;)
最近、「更新できなくてすいません」ばっかり言ってる・・・(涙)

忙しいのは一応あと少しで終わりなので、ちゃんと更新できるはず、です(涙)

最近、春らしい天気が続いてますね(^^)
花粉症の方はつらいシーズン到来でしょうか?

一応まだ花粉症じゃないのですが、花粉が多いっぽい日は目がしぱしぱします。
「それが花粉症の始まりだ!」と言われて、ちょいとびくびくしてます(笑)
花粉症にだけはなりたくないっ


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【2009/03/16 02:22】 | 神様がくれた(恋愛)
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第31話 じっと耐える時。

+++++++++++++ 

「昨日の月はね、ちょっと翳ってて、はっきり見えなかったよ。太郎も元気いっぱいだった。今日、連れて帰って、海の家に置いてもらうんだ」

 ジーのベッドの脇で、熱心に話し込む。
 ジーは布団に体をうずめて、うんうんとうなずいて聞いてくれる。

「和くんが……、あ、海の家の人ね。和くんが頼んでくれたの」
「そうか。よかった」
「和くん、無愛想だけど、優しい。ほんとはね、あっくんに頼みたかったんだけど、やっぱりちょっと気まずくて」

 少し涙が出そうになって、実由は慌てて、目頭をぬぐった。

「……つらいか?」
「うん」

 ジーはふと目を細めて、しわがれた手を実由に向けて開いた。指がちょいちょいと動いたのを見て、実由はそっとジーの手に触れる。

「ミュー。お前はお前が思っているほど、弱くない」
「うん」
「今は、力を蓄える時だ」

 実由の手を、ジーはぎゅっと握りしめた。

「がむしゃらに走らなければいけない時がある。だけどな、じっと耐えなければならない時もある」
「うん」
「今がその時だ。ミュー。じっと、耐えろ。足に力入れて、持ちこたえろ。今が踏ん張り時だ」

 自然と足に力が入っていた。地面を押さえつけるように、床と接した足の裏は引きつるくらいに力がこもる。

「踏ん張ったら、ちゃんと、ご褒美が用意されてる」
「ご褒美?」
「ああ。次の出会いだ」

 右の口角が上がって、ジーは意地悪そうに笑った。

「別れの次は出会いだ。失恋の後には新しい恋だ」
「そんなの、考えられないよ」
「今はな」

 実由は口を尖らせて、小さく文句をつぶやく。次の出会いなんて、そんなのよりあっくんがいいのに、と繰り返す。

「厚志とまた恋に落ちるかもしれん。別の誰かかもしれん。それは今、頑張ったお前に与えられるご褒美だ。だから、今は耐えろ、ミュー」
「ご褒美」
「そうだ」

 実由は大きくうなずいていた。
 また意地悪そうに笑って、ジーは握った手を振り回してくる。

「男で出来た傷は男で癒せ」
「うわあ。なんかエロい!」
「色恋沙汰なんてもんは、そんなもんだ」

 妙な説得力があって、なんとなく納得してしまった。
 ジーと話していると、心がほぐれる。
 ジーを支えるつもりで病院に来ているけれど、逆にジーに支えられている。
 実由はジーの布団を直しながら、ジーとの時間を大切にしようと噛みしめる。


 ***

 日も落ちて、辺りはすっかり闇夜に染まっていた。
 黒々とした雲がすごい速さで流れている。月は大きな雲に隠され、姿さえ見えない。
 いつもより肌寒い外気に、ショートパンツから伸びた足が、わずかに震えた。
 それでも、長い上り坂を歩くうち、体中がほてって寒さを忘れさせてくれる。
 上がる息を整えて、道路の先を眺める。
 広い道路の真ん中に伸びる白い境界線。途中から闇に溶け、見えなくなっている。上り坂の終わりだ。
 長く息を吐き出して、また歩を進める。
 実由の横を真っ黒な車が一台、猛スピードで通り過ぎていった。
 風が巻き起こって、耳元でうなる。髪を押さえ、「危ない車」とぼやいた。

 和斗が里美に「犬を拾った」と進言してくれたのは、昨日の夜の内だった。
 里美は実由の母同様、最初は渋っていたけれど、実由が「犬をずっと飼いたいって思ってたから、私がもらって帰る」と言ったところ、「それまでならしょうがないわねえ」と許可を出してくれた。

 海の家の仕事が終わって、ジーのお見舞いから帰った実由は、早速、太郎を迎えに水族館に向かっていた。
 水族館にずっといたままで保健所に連れて行かれてしまっては大変だ。だから、実由の足は自然と速まる。

 ジーは、ああして水族館に通うことで、太郎を守っていたのかもしれないと思った。
 ジーの発言からすると、家族とは不仲なのだろう。そうだとしたら、太郎を飼うことが出来ない。だから、わざわざ太郎の下へ毎日赴いていたのかもしれない。

 上り坂を上りきり、「つかれたー」と大声で叫ぶ。
 また一台、車が走っているのが見えた。
 車の風でなのか、白いビニール袋のようなものが、一瞬はねた。
 車はそれを避けるように右に大きく逸れて、何事もなかったかのようにスピードを上げる。
 白い何かは、また一瞬ひょいと動いた。

「なに、あれ」

 ビニール袋のような軽いものの動きではないことに、実由はすぐに気付いた。
 足を止め、じっと凝視する。
 白い物体はもう動きを止め、道路に横たわる。
 じんわりと、汗がにじんだ。

「あれ……」

 それが何なのか、目は正確に実体を捉え始める。
 ぼやけた視界がはっきりとその存在を主張して、明確に浮かび上がる。

 脇の下から、汗がどっと溢れ出た。
 足が動かない。

 風で白い毛並みが揺れる。
 まだらに赤く染まりながら。

 吸い込む息も、吐き出す息も震えて、体中が総毛だった。

「太郎……!」

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あとがき↓
しばらくは更新日に更新できないかもしれません。
なるべく更新できるように頑張ります!!



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【2009/03/18 02:58】 | 神様がくれた(恋愛)
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神様がくれた
じいに捧ぐ物語。

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第32話 悪夢。

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 道路の真ん中で、それはうずくまり荒い息を吐き出していた。
 上下に動くお腹は赤く染まり、朦朧とした目は、どこも見ていなかった。
 実由は震える手で口を覆い、叫びそうになるのを必死に押さえていた。

 そこに横たわるのは、紛れもなく、太郎だったのだ。

「太郎……!」

 足がすくんで、動けない。
 思考は完璧に停止して、どうすればいいのか考えられない。
 涙だけが押し寄せ、嗚咽が込みあげる。

 かろうじて、実由は誰かに助けを求めることを思い立った。
 震えの止まらない手をポケットに突っ込み、携帯電話を取り出す。
 ボタンを押そうとするのに、うまく出来ない。

 何度も携帯電話を落っことしそうになりながらも、なんとか高山家の電話番号を押すことが出来た。
 数回のコール音の後、「もしもし」と無愛想な声が電話越しに聞こえてきた。

「和、くん?」

 声さえも震えて、うまく呼吸が出来ない。

『どうした?』

 異変を察知したのか、和斗の声は急に柔らかくなった。
 実由は唾を飲み込んで一呼吸おくと、電話を両手で掴んだ。

「今すぐ、来て」
『どうしたんだよ』
「お願い、今すぐ、来て」

 それだけしか言えなかった。
 状況を説明することも、今いる場所を教えることも出来ない。
 体が目の前の事実を否定して、言葉にすることが出来なかった。
 目をぎゅっとつぶり、祈るように繰り返す。

「来て」
「早く来て」

『どこに行けばいい』とか『なにがあった』と和斗はくり返し聞いてきたが、実由はそのどれも答えられなかった。
 耳に響く和斗の声さえも、まるで悪夢の中の出来事のようで。
 頭の中は真っ白に染まり、同じ言葉しか言えなかった。

『わかった。行くから。そこにいろよ。絶対に動くなよ』

 しびれを切らした和斗が電話を切る。
 電話回線の切れた音が、頭の中で反響し、駆け巡る。

「太郎……」

 実由はその場にへなへなと座り込んでしまった。
 そばに駆け寄って、やらなければならないことがあるのはわかっている。応急処置をしなければならない。何かをしなければ、太郎はきっと死んでしまう。
 頭はそれをわかっているのに、体は一切動こうとしない。

 怖くて近寄れない。

 映画のスクリーンの中で起こっているかのように、目の前の光景は現実味を帯びない。
 頑丈なアスファルトではなく、スポンジの上に立っているような、夢の中にいる、あのふわふわした感覚が体を覆いつくす。
 体が否定している。これは、現実ではないと。夢だと、思いたかったのだ。

 生温かい風が首筋をなで、太郎の白い毛を揺らしていく。
 べたりとこびりついた赤い血がそれに合わせて揺らいだ。

「太郎」

 呼びかけるたび、太郎の耳がぴくりぴくりと動いた。
 実由の声に反応しようと、前足が少し動いたけれど、太郎はそれ以上動くことはなかった。
 横たわり、お腹を上下に動かすだけ。
 それもだんだん、ゆっくりとした動きに変わっていっている気がした。

 月明かりが、雲に隠される。
 街灯の少ない真っ暗闇の中で、太郎の白い毛だけがぽつんと浮き上がって見える。

 こぼれる涙を必死にぬぐって、実由は太郎に近付くために立ち上がろうとした。
 ついた膝に、小石が突き刺さる。
 びりびりとした痛みが膝から足に響いて、それ以上、動くことを拒否する。

 ぼろぼろに流れた涙が、頬を伝い顎に流れて、道路に落ちる。

 もう、太郎の名を呼ぶことも出来なかった。


 ***

 電話から五分ほどたった頃。
 和斗が走ってくる姿が見えた。

 白いTシャツには汗がしみこみ、和斗がどれだけ走ってきてくれたのか、すぐに察しがついた。

「お前、何してんだよ……!」

 座り込んで泣きじゃくる実由を一瞥した後、和斗はすぐに太郎に駆け寄った。
 実由が何も言わずとも、すぐに状況を把握したらしい。

「まだ息はあるんだな」
「で、も」
「でもじゃねえよ! 手伝え!」

 和斗に怒鳴られ、びくりと体を震わせる。

「道路の脇に連れてくんだ。こんな場所にいたら危ないのくらい、わかんだろう?!」

 また車が通って、太郎に気付かずに轢いてしまったら、太郎はもう助からない。
 それがわかっていたのに、実由は何も出来なかったのだ。
 和斗はそんな実由を睨みつけ、「早くしろ!」と急かす。
 よろよろと立ち上がり、太郎のところに行こうとするのに、膝が震えて足が動かない。

「無理。無理だよ」

 一瞬、和斗は眉をひそめた。唇をかみ、実由を見据える。

「……もう一回、家に電話かけろ。母ちゃんに車で来るように伝えるんだ。早くしろ」

 和斗の声は鋭く、冷淡だった。
 実由の意気地の無さを非難しているように聞こえた。

 実由は止まらない涙をぬぐいながら、もう一度高山家に電話をかける。その間に、和斗はゆっくりと太郎を抱き上げた。
 血がべたりと零れ落ちたのを、実由は右目の端っこで見ていた。

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【2009/03/20 02:30】 | 神様がくれた(恋愛)
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